19年度の新規事業の審査では「事業別予算説明資料作成事業」についての「継続事業は省いて簡単に」に対して「町長宛に戻ってくる手紙が増えている」効果から継続事業と。くわえて町民に対するアンケートの計画を示しました。これにより10月14日から31日まで「町民アンケート」が実施された。
また、「諏訪地区小児夜間救急センター運営費負担金」については予想では日平均6.7人に対してじっさいには14.7人の利用があり診療収入だけで運営されている。下諏訪町からも255人で5.7%の利用があった。
今年4月に施行された自治体財政健全化法に基づき下諏訪町でも19年度の決算時の財政状況を示す財政指標が公表されましたが「黄信号」とされる国の基準を下回っておりほぼ健全な財政状況であると報告された。これは起債を抑え身の丈財政運営を目指した結果と評価。今後さらに計画段階からの民公協働による行政運営で健全な財政運営を継続してもらいたい。
☆自主グループ雅楽会と中学生が
ともに雅楽練習に励みました☆
町の体験講座から生まれた雅楽の自主グループは下諏訪中学校の総合学習「なぎがまの時間」で下諏訪の文化遺産をテーマにする1年生18人と共に7月から練習を続けています。6月の雅楽体験講座の受講生と昨年からの自主グループと中学生が一緒になって毎週の練習を重ねてきました。4ヶ月間の成果として、10月26日に開催された芸能祭に合奏をしました。中学生のとの練習は授業を受けている気分なって一生懸命になりいい刺激でした。
初めて触れる雅楽の楽器は簡単には音が出ません。何度も繰り返し楽器に触れて練習を続けることで音がでます。演奏曲目は「音取り(ねとり)」「平調越殿楽(へいちょうえてんらく)」の1曲。
練習している楽器は主旋律の篳篥(ひちりき)、和音笙(しょう)合奏を彩る龍笛(りゅうてき)の3楽器。悠久の音色を楽しみながら夢中で練習しましたが、芸能祭での発表は中学生も大人の共に緊張して身が引き締まりました。新しい仲間が増えることで相乗効果が生まれます。
歴史講座から下諏訪町の
区の成り立ちについて☆
先日開催された区文化祭で郷土史家河西孝雄先生による「昔の下の原」と題した歴史講座がありました。副題として「主に村の変遷、災難などについて」とデーターを元にした歴史講座でした。その中で10つ区の成り立ちについてのお話をたいへん興味深く聞きました。
それによると。江戸時代から萩倉、樋橋、西餅屋を含め
て和田峠の頂上まで下の原村と称した。明治5年戸籍法の制定によって下の原村を「下の原耕地」と呼ぶ時代があった。明治7年下の原村、湯之町、友之町、久保村、武居村、富部村、高木村の7ヶ村が合併して下諏訪村となる。
明治22年下諏訪村は全村を4つの区に分けた。
第一区 下の原、萩倉、樋橋、西餅屋 206戸
第二区 下諏訪、329戸
第三区 友之町、赤砂 220戸
第四区 久保、武居、富部、高木 288戸
明治26年下諏訪村は下諏訪町になる。
明治33年高木は独立して第5区となり、昭和14年萩倉、樋橋が第一区から独立して第六区となり、その後合併などによって第七区から第十区が加わって現在に至っている。
災難については「火事」「砥川の水害」「大風」「日照り」「凶作・飢饉」「疫病」「和田領の管理」「和宮の通行」「和田領合戦」の被害状況の記録を元にしたお話はその時代の人々の暮らしぶりが想像されました。お話の最後に「戦争は高島藩の武士がやったけれども、百姓町人まで動員された災難な事件であった」と結ばれたことが印象的でした。